TRADITIONAL STYLE

Vol.29 野村 忠宏


Jan 14th, 2015

photo_tadayuki uemura
text_ikuko hyodo

アトランタ、シドニー、アテネで開催されたオリンピックに連続出場し、柔道男子60kg級で前人未到の3連覇を成し遂げた野村忠宏さん。昨年12月に40歳を迎え、現役で活躍する野村さんは、ここでもまた前人未到のアスリート人生を歩んでいます。女の子にも負けるくらいだった少年は、いかにして金メダリストになったのか。そして3度のオリンピックを経て、今なお戦い続ける心の軌跡を真摯に語っていただきました。

柔道をのびのびできる環境を親父が作ってくれていた

―― おじいさんの創設された道場で3歳くらいのときに柔道を始めたそうですが、柔道の楽しさを意識するようになったきっかけはあるのでしょうか?

野村忠宏 家の横に道場があって、気がついたら柔道をしていたのですが、技があるわけでもなく、同世代の友だちともみくちゃになりながら、ワーワーやっている感じでした。そのうち少しずつ技術が身につき、自分が今も得意技にしている背負い投げをできるようになった喜びが、楽しさに変わっていった気がします。

―― 子どもの頃から負けず嫌いだったそうですが、それは柔道に限らず?

野村忠宏 そうだと思います。1歳上の兄貴は体が大きくて柔道も強かったのですが、自分は運動神経がよくなくて、何ひとつ勝てなかったんです。それをどこかで押し殺していたとは思います。

―― お兄さんは、大きな壁みたいな存在だったのでしょうか?

野村忠宏 そういう感じでもなかったんですけどね。ただもう子どものときは、ほんまに腹の立つ存在でした(笑)。兄貴にしたら生意気な弟だったのだろうし、毎日ケンカしてしばかれてましたね。ぶん殴られて、前歯が折れたりとか。

―― 激しいですね(笑)。

野村忠宏 中学生になり、兄貴と同じ天理中学の柔道部に入ると、関係も変わってきました。相変わらず家ではケンカをしていたんですけど、学校では兄というよりも“野村先輩”という存在になったことが、ひとつの変化だったと思います。さらにその後の天理高校の柔道部は全寮制だったのですが、そこでも少しずつ兄貴の存在が変わってきました。

柔道部の先生がうちの親父だったので、親父に怒られた先輩が息子である僕らに当たるようなこともあったのですが、兄貴は知らないところで自分を結構守ってくれていたみたいで。学校内では兄貴は野村先輩だし、親父は野村先生だし、ちょっと特殊な環境でした。

―― お父さんが先生というのは、どんな感じだったのでしょう。

野村忠宏 自分の記憶では、小さい頃から親父につきっきりで柔道を教えてもらったことはないんです。褒められることも、怒られることもなかった。兄貴が高校の柔道部に入部したとき、親父は監督を退いて副部長になったのですが、自分の息子が入ってきた以上、人様の子どもも預かるなかで監督はできないという考えを持った人でした。

子どもの頃は、もっと親父に見てほしいと感じることもありましたが、今思うと、柔道一家に生まれたプレッシャーや、強くならなければというプレッシャーを感じることなく、のびのびとできる環境を親父が作ってくれていたんですよね。だからこそ柔道を好きでい続けられた気がします。

競技者としての柔道は、決して楽しめるものではない

―― 大学4年生のときにアトランタオリンピックに出場して、見事金メダルを勝ち取ります。

野村忠宏 1回目のオリンピックはある意味、与えてもらった出場権でした。代表に選ばれたとき、過去の実績はゼロに等しかったし、運もよかったんです。もちろん初挑戦の恐怖はありましたが、周りも「あいつは誰や?」くらいの雰囲気だったので、オリンピック特有の嫌なプレッシャーを感じることもなく。若さと勢いで決勝まで駆け上がって、取ることのできたメダルだったと思います。

―― 楽しめたという感じですか?

野村忠宏 いや、楽しめません。勝つために積み上げてきたことをすべて出すことができて、結果が伴ったときは本当に幸せな気分になるし、そういう状況になれば何でも言えます。だけど、決して楽しめるものではないですね。自分をぎりぎりまで追い込んで、プレッシャーや恐怖、孤独と向き合うのが試合だと思っているので。

―― その感覚は、次のシドニーオリンピックでさらに大きくなったのでしょうか?

野村忠宏 なりましたね。アトランタからの4年間は、オリンピック金メダリストとして試合に出て、その肩書きを背負いながら戦っていました。プレッシャーはありましたが、それ以上に4年間やり続けてきた絶対的な自信があったので、「かかってこいよ!」くらいの気持ちでした。

―― オリンピックを目指す4年間は、アスリートにとって長いですか、短いですか?

野村忠宏 振り返ったら短いものですけど、その間、ひとつのケガで競技人生が終わる可能性もあるし、若くてすごい選手が出てくる可能性もある。やっぱりただの4年間ではないです。シドニーのときは25歳で、大きなケガもなかったし、体力や経験など競技者として一番いい時期といえました。だからここで優勝して引退しようという思いを持って、それを公言しながら挑戦したんです。

―― にもかかわらず、2連覇をしてさらに次を目指すことになるわけですが。

野村忠宏 ここはとてつもなくきつかったです。「心技体」に当てはめるとしたら、アトランタは「体」、シドニーは「技」、アテネは「心」。当時、柔道界の常識では、軽量級で2連覇は考えられないと言われていました。3連覇なんて発想すらなかった。30歳まで現役でやっている選手もいませんでしたし。だけど、あれほど辞めようと思っていたはずの自分がだんだんいなくなってきて…。決断をするまで2年かかったのですが、結局自分のなかで出した答えが挑戦でした。

復帰後、自分が惨めで初めて柔道を嫌いになった

―― シドニーオリンピック後は、留学をされていましたよね。

野村忠宏 シドニーが終わって1年くらい経ったとき、今後どうするのかを聞かれるようになってきて、それが鬱陶しくなってしまって(笑)。柔道があまり盛んじゃないところへ行きたくて、アメリカを選びました。同じ休むにしても、日本にいるのとは全然違いましたね。

―― その間、どんな生活をしていたのですか?

野村忠宏 最初は本当にのんびりしていたのですが、アメリカにも一応道場はあって、向こうでお世話になった先生がやっていた道場に1~2週間に1回くらい顔を出すようになりました。子どもたち相手に競技者とは違う楽しい柔道をするなかで、自分が求めるのはやっぱり柔道なのだと少しずつ心境が変化してきたんです。

―― 具体的には、どんな変化だったのでしょう。

野村忠宏 自分はチャレンジすることや、失敗を恐れているんじゃないかと思うようになったんです。厳しいかもしれないけれど、もう一度チャレンジすることが、自分にとって意味のあることになるかもしれない。後々、あのとき3連覇を目指しておけばよかったと思ってもどうしようもないし、今の自分が本当に必死になれるのは、現役でやることなのかなと。それで決心して戻ってきたのですが、復帰して間もないうちは自分の予想以上に厳しかったです。もう全然勝てなくて…。

―― 2年のブランクは大きいと思いましたか?

野村忠宏 思いましたね。周りは自分の再挑戦を歓迎してくれたけど、1回負け、2回負けて、負けが続くとだんだんそれが失望に変わってくるんです。「あのとき辞めておけばよかったのに」っていうね。それが自分をさらに小さくしてしまい、もう負ける姿を見せられない、格好悪い試合はできない、という考えにとらわれてしまいました。

―― プレッシャーというより、プライドにつぶされそうになった?

野村忠宏 そうですね。厳しい挑戦を覚悟して戻ってきたくせに、2連覇した俺は、今まで通り1本勝ちして、圧倒的な柔道でみんなを魅了しなきゃいけないと思っていたんです。最初のうちは、2年間のブランクを言い訳にできたけど、それも通用しなくなり、しまいには畳の上に立つのも怖くなってしまいました。「あーあ」という目で見られているのを過敏に感じて、自分が惨めでそのとき初めて柔道を嫌いになってしまったんです。

―― どのようにしてそれを乗り越えたのでしょう。

野村忠宏 アテネを目指すと決めたのは自分であって、周りから急かされて決めたわけでもない。今は苦しいけれど、まだ変わることのできるチャンスや時間はある。途中で勝手に諦めて逃げ出すのは男として悔しいし、2年かけて導き出した決断を裏切ることになると思ったんです。本当に逃げ出したかったけど、それをしたら一生後悔するから、まずは自分が変わらなければいけないと思いました。

変えるべきなのは練習方法などではなく、格好よく勝たなきゃいけないという思い込みだったんです。こんなに負けて、周りからも「あいつは終わった」と思われているのに、何をひとりで格好つけているんだろうって。大事なのは「強い野村」を表現することではなく、泥くさくても不細工でもいいから、畳の上で自分の力を出し切ることなのだと気がつきました。

―― それまでは見ないようにしていた、弱い自分と向き合ったということでしょうか?

野村忠宏 極端な話、子どもの頃は女の子にも負けるくらいで、めっちゃ弱かったんです。親父に「無理して柔道せんでいいぞ」と言われるほどの選手だったから、それを考えたらここまでよくやったよ、と思ったりして(笑)。いずれ競技者として戦えなくなる日は絶対に来るわけだし、今しかできないと思ったらなんとかなるもんなんですよ。

たとえ手探りでも、やり続ければ間違いない

―― そして今も現役で挑戦し続けているわけですね。

野村忠宏 勝負の厳しさを身をもって感じてきたつもりなので、自分の現状を考えると「次のオリンピックを目指します」とは簡単には言えない。だけど、もう引退していいかなという気持ちにはならないんです。勝ちまくっていた若い頃より、柔道や自分についてより深く考えるようにもなりました。

―― 20代のときの柔道と、30代の柔道は違いますか?

野村忠宏 違いますね。20代のときは理屈としてわからないまま、とにかく練習で技を磨いてきたところがありました。40歳の今は、感覚だけではなく頭で理解した技術や長年磨いてきた技を今の体で生かすためにはどうすればいいのかを課題に、20歳前後の学生と稽古しています。それが難しくてね。年齢や怪我を考慮した上で技術的な相談が出来る人もなかなかいなくて。

―― たしかに、その感覚を理解できる先人が誰もいない、ということですもんね。

野村忠宏 実績的な部分も年齢的な部分も含めて、ここまで現役を続けてきた先生方はいないので、自分に対して多少アドバイスしづらいみたいです(笑)。

―― ちなみに「自称、天才」は、自分を奮い立たせるための言葉なんですか?

野村忠宏 どうなんでしょう…、もともとは周りが言い始めたからね。「練習嫌い」とも言われるけど、後輩に「じゃあおまえら、好きか?」って聞くと「いや、好きではないです」って答えるんです。それなら練習嫌いと変わらへんやろ、と。「嫌い=しない」と捉える人が結構いてね。しかも自分で天才って言ってるし。だからあまり感動を呼ばないんですけどね(笑)。

―― 感動を呼ばないなんて、さすがにそれはないです(笑)。

野村忠宏 大学時代に恩師と出会ったことで、練習の取り組み方や考え方を大きく変えてもらいました。日々の練習を試合本番だと思って、全力を出し切る。そして、本当に強くなるためには、自分がもう限界と思ったところからさらに追い込まなくてはならないことを教えてもらいました。だから練習時間が人より短いというのは事実です。時間は計れるものだからね。ただし誰よりも強くなるための努力はしています。

今の自分は「なぜそこまでするの?」と思われている部分がある。だけど昔よりもだいぶ少ないものの、成長を実感できる瞬間もやっぱりあるんです。それを感じられるのは喜びだし、そうやって手探りでもやり続ければ、間違いない。今はそんなふうに思っています。

野村選手は特別だ、とは言わせない

―― ところで、野村さんはファッションに興味はありますか?

野村忠宏 洋服自体は好きですね。大学4年生のときにオリンピックで優勝して、人前に出ることが増えてきて、これはちょっと着るものを考えなきゃあかんなと思ったのが、関心を持つようになったきっかけです。3連覇後に、ベストドレッサーに選ばれたこともあるんですよ。なんでやねんって感じですけど(笑)。

―― 特別な服というのはありますか?

野村忠宏 やっぱり柔道着とスーツは特別です。柔道着は自分の仕事着でもあるし、本当に戦うものだから、何十年も着ているけれど気持ちが一番引き締まります。だから特別すぎるんですけど、それに次ぐのはスーツかな。不細工なスーツは着たくないので、昔からずっとオーダーで作ってもらっていますね。

―― 妥協しない性格は、そういう部分にも表れているのですね。

野村忠宏 いつも同じところで作っているんですけど、口うるさいのでめっちゃ嫌がられてるかもしれませんね(笑)。柔道で作った体のラインが、一番きれいに見えるスーツが着たいんです。同じサイズで作っても生地によって違ってくるじゃないですか。少しでも浮いたり、シワができたりしたら、ほんとに細かく言いますから。

―― 先ほどおっしゃっていたように、競技者ではなくなる日もいつかは来るわけですが、そしたらどんなことをやりたいですか?

野村忠宏 指導者もいいですが、何か楽しいことができないかなと思っています。柔道に限らず、失敗や挫折を味わって辞める人は多いですよね。違う道に行くのもひとつの方法だとは思うけれども、中途半端に諦めて、ほかの道もやっぱり合わないからと可能性ばかりを探して、結局何がやりたいのかわからないような人も見てきました。

スポーツを通して頑張っている子たちに、自分がやり続けて学んだことを伝えたいという思いはあります。小さい頃の自分は、一生懸命頑張っているけどなかなか結果が出ないような、よくいる少年だったから、勝てない子たちの気持ちもわかるつもりでいるし、長年チャンピオンとしてやってきて、トップで戦う苦しさもわかる。

そして今は、度重なる怪我など、この歳で競技者として続ける厳しさを感じています。スポーツをしている子やアスリートが様々な状況で感じる苦しみや喜びを経験しているし、誰にもできない経験もできていると思うので、それをいい形で伝えていきたいですね。「野村選手だから特別」ではなく、自分もみんなと同じ経験をしてるよっていうね(笑)。

今月のトラディショナル スタイル
野村 忠宏

1974年奈良県生まれ。祖父は柔道場「豊徳館」館長、父は天理高校柔道部元監督、叔父はミュンヘンオリンピック軽中量級金メダリスト、という柔道一家に育つ。 天理大学、奈良教育大学大学院を経てミキハウスへ。アトランタオリンピック、シドニーオリンピックで2連覇を達成。その後、アメリカへ留学。2年のブランクを経てアテネオリンピック代表権を獲得し、2004年夏アテネオリンピックで前人未到の三連覇を達成する。2008年北京オリンピックでの4連覇を目指していた2007年、世界選手権の合宿中に右ひざの靭帯を断裂し、翌2008年に右ひざ前十字靭帯の再建手術を行う。2013年1月現役続行を宣言。40歳になった現在も現役として若手を牽引している。著書に『折れない心』(学習研究社)。
www.nomuratadahiro.jp

Vol.30 田中 圭

Vol.28 熊谷 和徳


FEATURED ARTICLES

Mar 2nd, 2017

ICON OF TRAD

Vol.51 トラッドな春夏スーツ服地の知識を蓄えれば仕事も快適にこなせる。

サマースーツの定番服地となるウールトロについて、ニューヨーカーのチーフデザイナーの声と共にその特徴を予習。今シーズンのス...

Mar 9th, 2017

HOW TO

ジップアップ パーカ Vol.01

氷雪地帯で生活をしていたアラスカ先住民のイヌイット民族が、アザラシやトナカイなど、動物の皮革でフード付きの上着(アノラッ...

Oct 20th, 2016

HOW TO

ストライプ スーツ Vol.02

Vol.01のディテール解説に続き、Vol.02ではストライプスーツを着こなすスタイリングを提案。Vゾーンのアレンジで印象はぐっと変え...

Mar 2nd, 2016

ICON OF TRAD

Vol.39 女性がほんらい男物だったトレンチコートを着るとき

そもそも男性服であったトレンチコートは、どのようにして女性たちの間に浸透していったのだろうか?

Aug 25th, 2016

HOW TO

ネイビーブレザー Vol.01

アメリカントラディショナルファッションの代名詞ともいうべきネイビーブレザーは、日本では《紺ブレ》の愛称で親しまれている。...

Jan 12th, 2017

HOW TO

トレンチコート Vol.01

トレンチコートが生まれたのは第一次世界大戦下でのこと。イギリス軍が西部戦線での長い塹壕(=トレンチ)に耐えるために、悪天...


YOU MAY ALSO LIKE