TRADITIONAL STYLE

Vol.31 丸山 敬太


Mar 11th, 2015

photo_shota matsumoto
text_masayuki ozawa

昨年、ブランドデビュー20年という節目を迎えた丸山敬太さん。大きな成功を収めた偉大な世代から大きな影響を受けつつも、紆余曲折の中で至ったのは“自分だけの色”を見つけることでした。ファッションを全力で楽しみ、ファッションに苦しみ、ファッションに救われた半生を振り返って頂くことで、そのこだわりや思い、誇りが見えてきます。

ファッションが楽しくて、しょうがなかった。

―― ファッションデザイナーへの道を決めたのはいつですか?

丸山敬太 よく覚えていませんが、進路を決める節目節目でファッションデザイナーは選択肢のひとつでした。高校生の頃はとにかくデザインする仕事に就きたかったですね。なんとなく、ファッション7:グラフィック3くらいのイメージで。

―― その意思の通り、1984年に文化服装学院に入学されました。

丸山敬太 その頃はコム・デ・ギャルソンやヨウジヤマモトに代表される日本のデザイナーズブランドの全盛期と言われていました。原宿はカラス族で溢れ、ラフォーレ原宿やパルコの店員がハウスマヌカンという言葉の下にブームになっていた。僕も在学中の3年間は、トレンドに応じてファッションをころころ変えては、楽しんでいましたが、入学当初はチェッカーズみたいな格好もしていましたよ。

しかも音楽とサブカルチャーがファッションと密接だったから、流行のスピードが速かった。当時だけでもニューロマンティックにニューウェイブ、テクノなどに振り回されて。だからか今と違って色々なスタイルのおしゃれな人がいて、友人の格好もみんなバラバラで個性的。仲間内で常に集団で行動していたものですから、その場で洋服を全身とりかえっこして、クラブで踊ったりボーリングをしたりと楽しんでました。

―― その多様なファッション感が時代の象徴だったんですね。

丸山敬太 今の原宿にいるような子たちって、’80sや’90sな服装を楽しんでいて、当時の僕らと似ている気がします。ラフォーレの前に立っていると、デジャブを感じますよ。昔の自分たちの手足が長くなって、もっと美男美女になった感じ。ただ昔と違うと思うのが、同じスタイル同士だけでグループを形成していることかなぁ。

―― 昔は、お互いの個性を認め合っていたのですね。

丸山敬太 今思えば、それが刺激を与えていたんでしょう。本当に色々なカルチャーが東京にあった時代に、スポンジみたいに吸収できる年齢だったことは、ラッキーでした。テレビをつけてもアイドルの衣装がアバンギャルドでモードだったり。その頃の経験が貯金となって、今のクリエーションを続けていられるのでしょう。当時は何よりもまず服にお金をつぎこんで(笑)。

ファッションに憧れに憧れに憧れた。そんな若者でした。

やりたいことは必ず声に出さないと。

―― そして卒業後、ブランド設立までの間は何をしていましたか?

丸山敬太 高田賢三さんのアシスタントになりたくて、パリに行こうと思っていました。実際にパリで面接までして頂きましたが、ビザの関係など、問題が色々あって実現できず。これが初めてのプチ挫折。そして、日本でビギグループに入社します。「アツキオオニシ」というブランドのアシスタントデザイナーとして、3年半くらい勉強していました。とてもガーリーで、ファンタジックな洋服で、当時はカルト的な人気がありました。

―― 有名なドリームズ・カム・トゥルーとの出会いについて教えてください。

丸山敬太 彼ら(ドリームズ・カム・トゥルー)との出会いは非常にアナログでした。友人のカセットテープで初めて曲を聞き、すぐに虜になりました。彼らは瞬く間に売れていきましたね。あるとき、いちファンとして渋谷公会堂のライブを観に行ったんです。そのときに彼らの世界観を目の当たりにして、自分ならもっと上手に彼らのやりたいことを表現できると思い込んでいました。根拠のない自信ですよ。

―― ネットのない時代に、どうやって出会ったんですか?

丸山敬太 やりたいことは言葉にしなきゃと思うタイプなので、あらゆる場所で、彼らの衣装がやりたいと言い続けていました。

―― 今で言うところのツイッターによる拡散ですね。

丸山敬太 そうですね。たまたま飲みに行ったお店でマスターが「よくうちに飲みにくるよ」と言っていたので、連絡先とデザイン画のブックを店に預けて。そうしたら連絡が来たんです。僕は文化服装学院の卒業生というご縁もあって『装苑』でリメイクの連載とかやっていたんです。

それを吉田さんがスクラップしてくれていたらしく、話はトントン拍子で進みました。それまでは自分たちで衣装も考えていたらしいですが、彼女たちも大きなプロジェクトを抱えていて、それどころじゃなかった。

―― それが1991年から始まった、4年に一度の「史上最強の移動遊園地 DREAMS COME TRUE WONDERLAND」のステージ衣装ということですね。

丸山敬太 はい。確か2着くらい僕のデザインではなかったのですが、それから約25年間、彼らの衣装を作らせていただいています。でもこれに関しては、僕がというよりも、運命的な出会いに感謝ですね。アーティストにとってライブは勝負の場みたいなもの。そのステージに自分も毎回引っ張られていくイメージ。上の景色を見続けさせてもらいながら、ものづくりできる幸せ、毎回感じています。

物語から生まれるコレクション。

―― そして充実したフリー時代を経て、1994年にケイタマルヤマがスタートします。ブランド名がデザイナー名って、当時すごく多かったですね。

丸山敬太 そうですね。今では、逆に珍しいかもしれません。デザイナーになったら自分の名前でブランドもって、パリコレやって、世界中のブティックで展開して、免税店で香水を売るみたいな、昔ながらの成功パターンを純粋に刷り込まれていましたね。世代間の縦の繋がりも強かったので、影響を受けつつですね。正式名称は<ケイタマルヤマ・トウキョウ・パリ>ですから。超ベッタベタ(笑)。

―― 自身の名を冠することは、今では珍しくなりました。それだけに洋服に全身全霊を注ぐような、強い意志と覚悟の表れを感じます。

丸山敬太 僕の少し下の世代から、変わってきましたよね。名前を使ってすごくよかったこともあれば、それが足かせになって苦しんだことも、たくさんありました。

―― 毎シーズンのコレクションテーマはどうやって決めているのですか?

丸山敬太 物語ありきですね。僕はシャツを作ってと言われて「はい」とすぐに作れるタイプではありません。いつ、誰が、どこで、何のためにというストーリーがないとダメなんです。だから架空のお話を妄想する作業から始まります。これはコレクションをスタートする前から続けているルーティーンワークですね。

―― デビューコレクションは、それまでの経歴が反映された印象を感じます。当時を振り返っていかがですか?

丸山敬太 今でもよく覚えているのは「東京っぽいデザイナーが出てきた」って言われたことです。当時のモード系の人たちはこれをモードと呼んでいいのか、と困惑されたようで。ただ、とにかく勢いはある、みたいな(笑)。その時はその評価がショックでもあったんですが、今見てもデビューコレクションはその評価こそ僕らしいコレクションだと満足しています。

―― パッチワークが象徴的でしたね。

丸山敬太 既成の生地1種類で洋服1着を作ることにあまり面白みを感じられなかったんです。それに自分でオリジナル生地を作るには時間とお金がかかりますから。なので、パッチワークが多かった。それをファッションジャーナリストの平山景子さんが知ってくださり「それを自分の強みにしたらよい」とアドバイスを頂いたんです。人と差もつくし、楽しい感じが好きだし。色々なテキスタイルを接ぎ合わせていました。

―― ここ(丸山さんアトリエ)のクッションにもありますが、刺繍ものも象徴的ですよね?

丸山敬太 そうですね。僕はひとつの洋服に色々な要素を詰め込むのがとにかく好きなんですよ。現代のシンプル&ミニマリズムなベーシック志向とは真逆ですね。(取材場所であるアトリエを見渡して)ここにあるひとつひとつも力技でまとめているみたいでしょ。ホテルみたいなシンプルな部屋って、憧れますよね。

―― その後、2、3年するとぐっと大人っぽいコレクションになりました。

丸山敬太 パリでコレクションをやりたいと思ってからです。海外は洋服は大人が買うもの、という概念がありましたから。当時は日本のガーリーでかわいい要素がマーケットに存在していなかったんです。いかに洗練されていてセクシーであるかが重要でした。その流れに合わせるように、クリエーションを調整するようになっていました。

「どこから来て、何をしたいのか」への答え。

―― パリではどうでしたか?

丸山敬太 当時パリにサンプルを持っていき、プレスを探すために各所を回って洋服を見せていました。あれこれ言われてけっこうへこんだりもしましたが、グローバルな視点を持っていたパリの人たちの言うことって結局はシンプルで「君はどこから来て、何をしたいのか」を問われていただけなんです。

―― その言葉の意味をどう解釈されたのですか?

丸山敬太 つまり自分は何をもって世界と戦えるのか、と。強みって、結局は経験してきた時代や背景や文化であり、そこからしかクリエーションは生まれないんです。自分の世代は川久保玲さん、山本耀司さん、三宅一生さんなど先輩への憧れが強く、そのイズムが常にあります。しかし僕はそこまでアバンギャルドな発想をするデザイナーではありません。

改めて自分を分析すると、先輩たちに憧れた一方で、彼らが創るために壊してきたものが好きなことに気づいたんです。1960年代のサンローランとか。それが軸になり始めたのが、ちょうどその頃。その影響だと思います。

人の幸せに立ち会える洋服を。

―― パリへ進出し、目指すものが変わったことで、楽しさは変わりましたか?

丸山敬太 その後、正直すごく苦しい時期がありました。ビジネスのバランスが崩れると、いろいろなものが壊れることを実感しましたね。マーケットの違いが大きすぎて、日本とパリのどっちに軸足を置いてよいかわからなくなりました。結果、どっちのお客様にも不義理してしまった感じです。最近になって、やっと昔のように自分らしさを発信できるようになりましたが。

―― そのきっかけはなんですか?

丸山敬太 インターネットによるグローバリズム化が大きいですね。当時は日本と世界との文化の違いや成熟度合いの違いから、バランスをとるのが難しかった。しかしネットがその距離を縮め、フラットに整えてくれました。好きなものを純粋に発信しやすく、受け入られやすくなった気がします。

―― ネットの普及は、ファッションにおいて否定的な意見が多いです。

丸山敬太 確かに、それが全てになってはいけませんが、実際にそれに助けられたことも多かった。何事もバランスが大事だということですね。

―― で、今ではメンズファッション「ニューヨーカー バイ ケイタ マルヤマ」のデザインもされています。

丸山敬太 これは僕が自身のメンズコレクションでも表現していたトラッドな部分の延長線上のクリエーション。僕はあくまでトラッドテイストが好きなんです。本当にトラッドが好きな人には、着こなしの厳格なルールをきっちり踏襲することが大切。でも、実際にトラッドなお店に行くと、着てみたら似合わないものが多かったりすんですよ。それらのシルエットやディテールを解釈して表現しているから、あくまで「トラッド風」ですね。

―― ビジネスシーンも意識されていますか?

丸山敬太 はい。でも僕が毎日スーツを着る職業じゃないから、これも妄想の世界。スタイリッシュなビジネスマン像を想像して洋服をデザインしているので、リアルより少しファンタジーですね。

―― ケイタマルヤマのウェディングドレスのコレクションはまさにそうですね。

丸山敬太 そうですね。とにかく、ハッピーな瞬間に僕の服を着てもらいたいという気持ちを常にもっています。思い出や記憶に残る服、となるとウェディングはその最たる瞬間。着る人の人生に少しでも関われる感じがして、好きなんです。毎シーズン、3〜4型は新作を作って、昨年からレンタルも始めるなど、大分本格的になってきましたね。

―― 自身のコレクション、ディレクション、ウェディング、アーティストの衣装、家具のデザインまで幅広く手がけられています。

丸山敬太 車をデザインってなったら話は違いますけど、興味のある範疇をまだ超えていないと思っているので、まだなんとか大丈夫です。

ワンクリックでの買い物はもったいない。

―― 興味の範疇を広げるために、何を心がけていますか?

丸山敬太 迷ったら買う。これに尽きます(笑)。

―― いま、何か集めているものとかありますか?

丸山敬太 収集癖はまったくないんですよ。自分にとってかわいいものを発見して自分のものにすることが好き。コレクターよりハンターに近い感覚です。それが楽しい。

―― ファッションすらどう楽しんでよいかわかりにくい時代です。アドバイスをお願いします。

丸山敬太 とにかく、なりたい自分を明確にさせると、何を着たらよいのかが見えてきます。似合わない服って、じつはそんなにないと思うんです。好きな服を見つけたら、まずちゃんと袖を通すこと。ワンクリックで洋服を買ってすぐに届く便利な時代ですが、それだけに甘えてはむしろもったいない。興味をもった服を着てみることの繰り返しが、興味の世界を広げていくんです。

最近の若い人は合理的で賢い。ローンを組んでまで洋服を買う人もいないんじゃないかな。別に借金してまで洋服を買うことをオススメするわけじゃありません。でも「いい服」って食べ物みたいなもの。新しい自分に出会うために、大切な存在なんですよね。だから楽しいし、ワクワクさせてくれるんです。


Vol.31 丸山敬太

今月のトラディショナル スタイル
丸山敬太(まるやま けいた)さん
東京生まれ。KEITA MARUYAMAデザイナー。そのほか、NEWYORKER BY KEITA MARUYAMAのデザイン、ミュージシャン、俳優、舞台の衣装製作をはじめ、JALの客室、空港部門の制服のデザインを手掛けるなど幅広い分野で活動中。

Vol.32 若木 信吾

Vol.30 田中 圭


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