NEWYORK LIVES

重松象平 「Newがつく都市」


Feb 21st, 2017

Text : Shohei Shigematsu

Photo:Naho Kubota

「New」ということばを故郷の街にくっつけて世界のどこかに全く新しい街をつくるというのはいったいどんな感覚なんだろう。それは帰ることのできない故郷への想いと、すべてを一からつくりあげようとする想像力がミックスされた希望のようなものだろうか。まさに「New」のつくニューヨークにいると肌で感じる独特なエネルギーの源泉は、「新しい都市をつくる」という想像力そのものなのかもしれないと思う。そして実際ニューヨークは「New」の名に恥じない突出した斬新さと独自性をつくりあげて、現代の都市像を牽引してきた。
 
でも「New」がつくと、それはそれでいろんな問題が生じる。例えば「New」がついているから、そこで常に新しいコンテンツや進化が生まれているかのような錯覚をしてしまう(日本の新発売マーケティング的な…)。「New」がそこにあると安心して消費しようとするばかりで、「New」をつくりだす想像力が弱くなってしまう。主体性をもって積極的に都市に参加し、新しいレイヤーを加えようとするのではなくて、他者として適度なプライドと良好な距離感(I♥︎NY的な…)を保って都市と付き合ってしまう。そんな所謂「保守性」を皮肉にも「New」はつくってしまう気がする。

そんな「New」が生み出すパラドクスを感じたのが2001年の“911”(世界貿易センターのテロ)だった。僕はオランダのロッテルダムに住みながらもホイットニー美術館の増築計画を担当していたため、たまたまニューヨークに居合わせた。すでに承認されていたデザインへの評価は911後、急に「ラディカル」や「インポッシブル」に変わった。そしてまもなくキャンセルになった。その当時住んでいたわけではないので定かではないが、街全体が新しいものを拒んでいるような気がした。ツインタワーが崩れ去ったときニューヨークを象ってきた想像力の礎も損なわれたに違いない、そう思った。とにかく居心地が悪かった。

中国で竣工したCCTVの展望台にて。

その後イラクに侵攻したアメリカは求心力を失った。建築業界でも中国が新しいマーケットとして台頭した。僕も“911”のトラウマがあったのか、自然とアメリカを離れ中国のプロジェクトに携わった。そこで運よく北京のCCTV(中国中央電視台)新本社屋や深圳の証券取引所新社屋などを担当することができた。1973年生まれの第二次ベビーブーマーで日本における近代化を経験できていない僕にとって、まさに近代化と開国を迎えていた中国でその息吹を感じることができたことは建築と都市に関わる者としてとても有意義だった。そこにはニューヨークで経験し損ねた「New」のエネルギーがあった気がした。

北京の新ビジネス地にあるCCTVビル。

2001年から5年間ほど中国や中東など右肩上がりの経済圏を追い続ける生活を謳歌した。だが常に他者としての虚しさがあった。設計する建築の規模が巨大で、コンテクストもタブラ・ラサなものが多かった。「New」が形骸化するほど溢れていた。そんな建築条件の自由さと引き換えに、自分の生活のベースは持てなかった。日本にもヨーロッパにもアメリカにも中国にも居場所がない気がした。まさにグローバル高度市場経済難民だ。そんな経済の大きな流れから距離を置きたいと思った。

2006年、OMAのNew York事務所を立ち上げた。ブッシュ政権下、ニューヨークはアンポピュラーな場所だった(少なくとも僕の周りでは)。EUが盛り上がっていたのもあってか、ヨーロッパの友達は僕の決断をサポートしなかった。というよりはアメリカには未来はないと決め付けて、気にもしていないような感じだった。実際、すぐに再建するはずだったワールド・トレード・センター計画も全く進んでいなかったし、街の時間が止まっているようで、NewというよりはOldな感じだった。でもだからこそグローバリズムと距離をとれる気がした。僕個人の新天地としては最適だった。

SoHoの西、Varick Streetの旧印刷工場街にある大きなビルの小さなスペース(96平米)に、事務所を構えた。所員は僕を含め5人しかいなかった。プロジェクトはコーネル大学建築学部の増築という(中国のプロジェクトに比べれば)小さなものだけだった。でも歴史的コンテクストが豊かなプロジェクトに久々に対峙できてうれしかった。

最初に借りた小さなスペース

イーストヴィレッジに小さなステュディオを借りた。ヴィレッジっていう小さなローカル・コミュニティがあるような響きにあこがれた。和食系のスーパーやレストランが多いのもこのエリアを選んだ理由のひとつだったが、出張ばかりで結局ほとんどいなかった。

2007年、プロジェクトは順調に増えたが、すぐにリーマンショックの予兆が表れた。
2008年、事務所を支えていた22丁目のコンドミニアム・タワーやニュージャージーの複合施設も止まってしまった。“911”の再来かと不安になったし、ついてないなーと落ち込んだ。所員を解雇するのもつらかった。そんなとき、「経済がダメなときはハイバネーション(冬眠)するしかないんだよ、いずれまたよくなるから」というニューヨーカーの言葉に、天気みたいな言い方して気楽なもんだなと思いつつも、内心救われた。自分も右肩上がりの波には乗っていたわけだから、下がる波にも乗らざるを得ない。ごもっともな話だ。

22丁目のコンドミニアム・タワーの完成図、このプロジェクトはとまってしまった。

大学でポスト・クライシス(不況時)の建築や都市の可能性をリサーチした。よく思い返してみたら僕はオイルショック時に生まれ、バブルがはじけた後で大学入学や就職などを迎え、不況に翻弄されてばかりだった。不況って本当にネガティブなことなのだろうか? シンプルな問いだった。詳細はここでは避けるが、そうではないことがわかった。

コロンビア大学でのポスト・クライシスのリサーチ。有名な都市・建築論が不況時に書かれたことが多いことを示している。

仕事がなく時間があったからか、そのころからニューヨークへの主体性を意識して住むことができた。ローカルなイベントになるべく参加した。引越しも頻繁にしていろんなエリアに住んでみた(なるべくジェントリフィケーション「高級化」されてないエリアを選んだ)。教鞭をとっていたコーネル大やコロンビア大での設計課題の敷地をなるべくニューヨークにして学生と共に知識を蓄えた。そしてとにかくたくさん街を歩いた。2009年、オバマ政権になって変化の兆しが見え始めていたが、上下にゆれ続ける経済の波と同様、左右にふれるアメリカの政治の振り子にも翻弄されないよう気をつけた。

2015年の事務所の様子

そんな一連の意識改革(?)が効いたのか、2010年ごろから徐々にではあるが事務所が軌道に乗っていった。いまだにニューヨーク以外での仕事のほうが断然多いが、ニューヨークでも少しずつ仕事ができるようになってきた。マンハッタンで初の建築となるグラマシーパークのコンドミニアム、イーストヴィレッジの蔡國強のアトリエ、メトロポリタン美術館コスチューム・インスティテュートの展覧会やガラのデザイン、そしてパークアベニュー・アーモリーでのアート・インスタレーション(1つ目の写真)など、ニューヨークを作っている人たちと仕事することが増えた。

メトロポリタン美術館のコスチューム・インスティテュートの展覧会の様子

ニューヨークに住むとよく高いところから街を見下ろす機会がある。眼下に広がる何千というビル群を以前は他者として景色のようにただ眺めていた。いまでは絶対にここで建築をつくりたいと想像力を働かせるようになった。10年経って、いまやっと自分がニューヨークで「New」をつくっていくという気概と自信がうまれてきた。


建築家
重松 象平

国際的建築設計集団OMAのパートナー及びニューヨーク事務所代表。ケベック国立美術館、マイアミの多目的施設ファエナ・フォーラムなどが2016年に竣工した。虎ノ門ステーションタワー(2022年竣工)、福岡天神ビジネスセンター(2020年竣工)など、日本での大型プロジェクトも進行中。現在ハーバード大学デザイン大学院(GSD)で教鞭をとり、「食のデザイン」(Alimentary Design)と題するスタジオを率いて、「食・建築・都市」の新たな関係性について研究している。

川村真司「出る杭が謳われる都市ニューヨーク」

SADA ITO「自分を傷つけ、癒し、受け止めてくれたニューヨーク。」(1999.10-2001.02)


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